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エクラブランシュ株式会社 代表取締役
■化粧品・健康食品 企画開発
■美容・健康セミナー講師
■生活習慣病予防指導
■自社ブランドRAMASUTEA開発
■オーソモレキュラー・ニュートリション・エキスパート
■公益社団法人かながわデザイン機構
昭和54年
福岡県生まれ、奈良県育ち、神奈川県在住
平成28年
エクラブランシュ株式会社を立ち上げる
・エステサロン経営
・企業向けPB化粧品企画開発、海外事業
・自社ブランドRAMASUTEA開発、販売
・美容・健康セミナー、個別相談などを手掛ける
<趣味>
・政治、経済、海外情勢の情報を集めること
・美容、健康、食に関する仮説を立て「実験・結果・検証」を自分の体で試すこと
・神社巡り
・若い人を育て、若い人から学ぶこと
・お酒を飲みながら動画配信サービスの映画やドラマを観ること
・価値観の合う人と熱く語ること
私は福岡県で生まれ4歳半まで可愛がられて育ち平和な日常を送っていました。
その後、奈良県で20歳まで過ごしネイティブな関西弁を話せることがちょっと自慢です。
しかし私が平和に過ごしていたのは4歳半まででした。
自分の人生を振り返ると幼少期から19歳までの人生が一番ボリュームが多くなります。
<私の本当の両親は誰?>
私を育ててくれた両親は、父は寡黙なバスの運転手、母は専業主婦。
母は友人がおらず、働いた経験も少なく、娯楽もあまり無い方でした。
生活の中心が「美由紀」である私。
イライラの半分は私、半分は父へ毎日ぶつけられます。
ヒステリックだったこともあり、毎日怒られたりひっぱたかれたり。
夫婦喧嘩の種が私に原因がある場合は両親ともに手が出るため、体にあざが出来ることもしばしば。
そんな日々を過ごしながら10歳のある日、いつものように母と喧嘩。
母「あなたは私の子じゃないのよ!!」
私(橋の下の子かな?ドラマじゃあるまいし)
母「あなたを本当の場所に返します。」
私(??本当の場所??)
あれよあれよという間。
私が自ら奈良の小学校の担任の先生に転校する旨の話をし、(両親じゃなくて私が ( ̄▽ ̄;))
母は私を福岡に置いてさっさと奈良へと帰っていきました。
(??)
人生の衝撃。
■私を育ててくれていた両親は、私の本当の親じゃなく、本当の父の「妹夫婦」が養子縁組をしていた。
■私が「叔父ちゃん」と呼んでいた人が私の本当の父だった。
■私の本当の母は私が生まれて1歳にも満たない時期に離婚をしていたため、私は本当の母の顔を知らない。
もう・・・登場人物が多くてややこしい 苦笑。
そう、私が生まれて4歳半まで可愛がられ幸せに育った所、”福岡”が「私の本当の居場所」だったのです。
福岡の小学校に転入手続きが終わり、近所の女の子たちが
「みゆきちゃんおかえり!覚えてるよ!!」と声をかけてくれました。
なんだかよく分からない中、生まれ故郷で過ごすことになったらしい?
しかし、ひと月も立たないうちに、「育ての両親」は福岡に戻り「美由紀を返してほしい」と、祖母と本当の父に涙を流しながら頭を下げていました。
祖母は、それはそれはキツイ性格の方でしたから烈火の如く怒り、10歳の私の前に仁王立ち。
「美由紀はどうする?」と、問われました。
私(どうする?って言われても・・・。)
祖母「ここにいるのか?奈良に帰るのか?(福岡弁で)」
私「帰る」。
再度、祖母は怒り狂い、「知らん」という事で、私は迎えに来た「育ての両親」とともに奈良に帰り、また私の口から奈良の小学校の担任の先生に「戻りました」という説明をする羽目に。
だって、10歳ですよ?
今まで一緒に暮らし、「お父さん」、「お母さん」と呼んでいた“両親と思っていた人”と
”本物の両親”が違うということを知って何が何やら理解できるわけがありません。
もしも奈良に帰らず、福岡に残っていれば、きっと本当の父や祖母にひっぱたかれることも少なかったでしょう。
(奈良に戻った後、母との喧嘩は再開しますから)
本当の父と祖母は、何故“私が本当にいるべき場所”であり、幸せが約束された「福岡」ではなく、
また、痛い思いをするのを分かっていながら「奈良に帰る」事を選択したのか理解できなかったと思います。
私には、それまで一緒に暮らしていた“両親と思っていた人”のもとに「帰る」と選択し、きっぱりと伝えた記憶が残っています。
今思えば福岡で過ごせば私は幸せだったと思いますが、それを判断できる年齢ではありませんでした。
その後は、以前と変わらず痛い、怖い思いをしながら奈良で過ごしていました。
また、物理的な痛みのほかに一つ足されたことがありました。
育ての母(叔母)は再婚でした。
初婚の時に一人娘を授かりましたが、離婚の際親権は相手の男性に渡ったため、それきり「本当の娘」に会えませんでした。
年は私の2~3歳お姉ちゃん。
そう、一つ足されたことというのは、「あなたは私の子じゃないのよ」を打ち明けることにより、解放されたのでしょう。
「あぁ、私の本当の娘の〇〇ちゃんは可愛かった、会いたい」というセリフをまだ10歳かそこらの私は度々聞かされることに・・・。
そんな中、育ての父から母へのDVが増し、私が13歳の頃、母は離婚することを決めました。
その時に一度だけ問われました。
母「一緒にくる?」
私(ほとんど働いたことがなく友人もいないし、実の母(祖母)とも仲が悪いこの人が自分の生活すらどうするんだろう?私を食べさせたり、学校に行かせることは無理だよね?)
私「行きません。」
これが、私の答えでした。
育ててくれた父と私は血の繋がりはありませんし、本来は育ての母(叔母)と一緒に出ていくべきだったのだと思います。
しかし私は自分が学校へ行くことが出来て、安心してご飯が食べられると判断した「育ての父」と一緒に過ごすことを決めました。
今考えれば13歳にして冷静すぎる判断(-_-;)。
そうして母が出て行ったあと、育ての父は亡くなるまで一度も私に手を挙げることはありませんでした。
<解放期と肥満>
そうして13歳の私は父と二人暮らしになったことで何もかもが解放されました。
それまで、TVも漫画もゲームも全て禁止。
理由は「目が悪いから」。
小学生の頃、友人たちが楽しそうに喋っている「りぼんとなかよしと付録」の会話に入れなかった寂しさ。
その反動から、中学校に入って初めて少女雑誌「りぼんとなかよし」を買い、幸せをかみしめたのです。
その後、13歳から20歳まで、それまで一切禁止だった漫画とアニメとゲームに没頭する日々が訪れます。
この学生時代、たまたま“良かった”ことと“悪かったこと”がありました。
先に、悪かったことといえば、食生活。
父は長距離バスの運転手でしたから、数日間帰宅しないこともしばしば。
普通の男性ですし、実娘でもない私のためにマメに食事を作ることは出来ませんし、私もご飯を作ってほしいなどと求めておりません。
その代わり、食費をもらいます。
1000円札を握りしめ、マンションの前にあるコンビニで
「菓子パン、おにぎり、お弁当類、お菓子、500、1000mlジュース」を毎日買って食べるのです。
もともと「ぽっちゃり」体形だった私は、母が家を出てからみるみるうちに太り、BMI28という過体重になりました。
気にならないわけではないけど、料理の仕方もわからないし、興味もない。
それより、一分一秒でもマンガを読んでゲームをしていたい。
そのような生活が7年間続きました。
その頃の私は、集中力がない、やる気がない、やりたいこともない、勉強が出来ない、肌は荒れている、自分に自信がない、友人が少ない、後ろ向き、生きている意味が分からない・・・などネガティブ要素しかありませんでした。
口癖は「可愛くなれなくて良いからせめて“普通の見た目”になりたい」。
これらの学生時代の話を笑いながらしていると、特に私が20歳前後の若いころは、周りの年配の方やアルバイト先のお姉さん方に「よくグレなかったわね~偉いわ~」と度々褒められました。
たまたま良かったことは「グレ」ずに、「オタク」路線を歩むことによって、「人様に迷惑をかける事が一つもなかった」事です。
これは本当にラッキーでした ( ´艸`)
今思えば、太っており不細工だった私はネガティブ思考だったはずなのですが、はっきりと覚えているのは
「若いときは“顔の良し悪し”で判断されるけど、おばさんになったら“肌の良し悪し”で判断される気がするから、素肌で勝負出来るようにしておいた方が良いな」と
【予防】という事を知らず知らずのうちに考えていたのです。
育ての父は私が高校3年生の時にがんで亡くなりました。
陽気とは程遠く、友人や趣味の少ない静かな人。
血の繋がりがない私を「育てたくない」と突っ返すことも出来ず、
そして思春期真っ盛りの私は感謝の気持ちを一かけらも持つこともせず、
父とお喋りしたことも父に笑いかけた記憶もありません。
本当に感謝の気持ちを持てるようになったのは、もっとずっと先になってから。
私が本当の父と慕い、お墓参りに会いに行くのは「育ててくれた父」の元、宮城です。
今の私が毎日笑って、そして真剣に生きることが出来るのは、育ててくれた父のおかげです。
50代という若さで、がんになってしまった父のような方々を減らしたい。
今の、そしてこれからの私にはそれが出来る。
生活習慣病にならない「予防未病」を多くの方にしっかりと伝えていきたい。
そう強く思っています。
<ダイエット成功>
一念発起で「食べる量を極端に減らすダイエット」に成功し、2ヶ月で約10kg、
その後ゆっくりとさらに10kg減量。
一番体が重かった時期から約20kgのダイエットに成功。
アパレルショップであれもこれも試着。
安くて可愛い服が「入る」初めての感覚。
嬉しいなんてもんじゃありません(*^▽^*)!!
そんな20歳の頃、漫画とアニメとゲームが好きすぎて、声優の学校へ一年通うことに ( ̄▽ ̄;)
みんな若いですから、恋愛もしますよね。
痩せた私は、オシャレを楽しみ、メイクも頑張って、片思いの男子に私から好意を持たれている事が「恥ずかしい」と思われないように、相当の努力を重ね女子力を磨きました。
<発声の学び>
ちょっと余談ですが。
結局声優にはなれませんでしたが、発声や舞台稽古などの基礎訓練を一通り学んだことで、セミナー講師など皆様の前に立たせて頂いた際、声がよく通るようになり大変役に立ちました。
また、「伝え手」「聞き手」両方の立場を知ることにより、「伝え方」の工夫についても考えられるようになりました。
心に強い思いや素晴らしい考えがあっても伝わらなければなりません。
私の漫画、アニメ、ゲーム期は20歳で全て卒業することになるのですが、人生「やってみた」事はどんなことでも自分の糧になるものです。
私のちょっとした自慢は前述した「ネイティブな関西弁」を話せることですが、逆にたま~にナレーションのお仕事を時に頂いたときに「訛ってる」・・・と言われることが(;''∀'')
<洗顔の大切さ>
21歳ごろ、何を思ったか突然デパートへ口紅を買いに行きました。
3,000円くらいの高級口紅を美容部員のお姉さんが丁寧に紙袋に入れて下さっている時、唐突に
私「どうやったら肌が綺麗になりますか?」
と尋ねました。
美容部員「そうですね、お客様はまだお若いから、高額なスキンケアはまだ使わなくていいから、良い洗顔で顔を洗うようにしてください」
と教わりました。
口紅が入った紙袋を手にしたその足で渋谷のドラッグストアに行き、1,800円の固形洗顔せっけんを購入。
アルバイトの時給800円台。
友人と二人暮らしの私のお財布には高額な洗顔せっけんです。
後の、ドラッグストアに就職する前までは正しい知識がなかったため、
クレンジング、化粧水は数百円の商品、乳液は切れたら切れっぱなし・・・
という残念なスキンケア習慣でしたが、
「良い洗顔を使って顔を洗う」事を途切れさせず継続しました。
また、同じ時期から、特に理由はありませんでしたが
「ファンデーション」も3,000円程という、
私にとってはこちらも高額ではありましたが、良いものを使用していました。
「良い洗顔を使用すること」と「紫外線から肌を守る質の良いファンデーション」。
この頃は理解せず使っていたこの2つのポイントがのちの私の肌に繋がるきっかけとなります。
<体調と食>
20代前半の頃、ダイエットといえばカロリー制限。
正しい食事法など知る由もありません。
料理は好きではないため、いつも適当に済ませていました。
この頃は20kgのダイエットに成功していたため、リバウンドをさせないことだけを気にしていました。
この頃の体調は、
一年中風邪を引いている、だるい、すぐに疲れる、頭痛、生理痛、寝起きが悪い、ぼ~っとする、イライラする、無性に泣く、感情の起伏が激しい、激しい便秘、集中力がない
など不調だらけ。
特に一時期は、頭がぼ~っとし、白いもやがかかっており、起きているのか寝ているのかわからないという、今では考えられない体調だったことを覚えています。
常に冴えない体調。
病院へ行くほどではなく、鎮痛剤や総合感冒薬でしのぐ日々。
しかし、当時は「それが普通」だと思っていました。
それもそのはず、当時の私は、不調が一つもないスッキリした体や脳を「知らない」のですから。
また、20代前半の頃、パン屋さんでアルバイトを1年間しておりました。
パン屋さんで働いているので1日3食、パンを食べる食生活が続きました。
今思えば頭にもやがかかり「起きているのか寝ているのかわからない時期」とパン屋さんでのアルバイト時期は同じ頃だったように思います。
パン屋さんのアルバイトのあとにドラッグストア業界に就職するのですが、
「もう、一生分のパンを食べた (^^;」
とその後、パンを口にする機会は自然と減りました。
24歳の時にドラッグストアに就職。
この就職が私の人生の転換期です。
入社してまもなく、「ビタミンの作用」について学びました。
その時に「ビタミンCを飲んだら風邪ひかなくなるかな?ビタミンCの美容液を使ったら肌が白くなるかな?」と思い、すぐに、医薬品のビタミンCの服用を始め、当時オススメしていた大手メーカーの「ビタミンC配合美容液」を購入して使うようになりました。
結果は見事的中!
ビタミンCを飲み始めて半年も経たない頃から「あれ?のどが痛くならない、最近風邪ひいてない?」
と、ほとんど風邪をひかなくなりました。
ビタミンC配合美容液は、白肌への即時効果が出るわけではありませんでしたが、今まで化粧品の知識は全く無く、「美容液って何ですか?」と言っていた私が、高級美容液を使うようになり、またお店のビューティー担当者のお姉さまから
「後藤ちゃん、あれ使いなさい、これ使いなさい」と言われたとおりに素直に購入。
化粧品代は一気に10倍以上に膨らんだものの、
良いスキンケアを正しく使用するとこんなにも肌の調子が良くなるんだ!
という事を自らの肌で経験しました。
ビタミンCの服用歴は約18年。
ビタミンC配合の美容液は一時期ブランクがあるものの今でも継続して使用中です。
20代前半の私の肌は「やや色白」でした。
「肌色白いですね」と少し言われるようになったのは20代後半。
「肌色白いですね」と言われることが増えてきたのは30代前半。
「肌色白いですね」と頻繁に言われるようになったのは30代半ば以降です。
年を重ねれば重ねるほど「お肌綺麗ですね、肌色白いですね」と言われる回数が格段に増えています。
老化=加齢
そうは言い切れないのではないでしょうか?
毎日丁寧に体と肌と向き合う。
正しいケアの積み重ねが本来その方が持つ最良の細胞、肌、健康な体を作るのです。
ドラッグストア時代の3年半はお店に販売している医薬品(栄養剤系)や健康食品など、あらゆるものを服用してみました。
その結果、面白いほど体が変わっていき、一言で表すとどんどん体が丈夫になっていくという感覚でした。
この頃はカロリー制限実施中、糖質摂取は程々、料理は好まず、そこまで食にはこだわらないといった日々ではありましたが、各主成分の効能効果を理解していく事で勉強が楽しくなりました。
厳しい職場でしたが、店長含めスタッフはみんな元気な20代。
毎日笑って、泣いて、走って、楽しんで、学んで。
年月を追うごとに、仕事に一生懸命取り組める体力と精神力を得るようになりました。
27歳の頃、引っ越しを機に転職。
「もう、医薬品の勉強は十分にしたから、次は化粧品の勉強でもしようかな」
という動機で、化粧品メーカーの美容部員になることに。
配属店舗は大きく3つ。
①百貨店
②スーパー(イオンさんなど)
③売り上げ規模の高い大手ドラッグストアです。
ほとんどの美容部員は雑多なドラッグストアを希望しません。
私はドラッグストアが大好きですから、迷わず「ドラッグストア」を選び、主に大阪、奈良、たまに京都、神戸などの大手ドラッグストアに美容部員として入店していました。
美容部員時代は、皮膚基礎、化粧品、メーキャップ、各種美容成分、フェイシャルエステなど
美容・美肌に関連することを一通り経験致しました。
化粧品の役割や皮膚知識を基礎から習得することが出来たことが、私にとって大きな学びとなりました。
そうして化粧品の使い方や選び方を理解することで、更に自分の肌と向き合えるようになり、そして多くの女性に正しい方法を伝えられるようになりました。
この頃からです。
少しずつ「お肌綺麗ですね、白いですね」と言われ始めるようになったのは。
<ありえない出来事から本社転勤>
私は20~27歳まで関東で過ごし、27歳で地元奈良に戻るものの
「関東に戻りたい、神奈川県にもう一度住みたい・・・。」と強く思いながら過ごしていました。
奈良と大阪を行き来していた29歳の頃、メーカーの美容部員からドラッグストアの化粧品チーフに。
■私がもともとドラッグストアの医薬品担当をしていたこと。
■その頃「登録販売者制度」が始まり、早々に取得していたこと。
■化粧品メーカーの美容部員をしているため化粧品の知識を持っていること。
これらが組み合わさり、私はまた、ドラッグ業界に戻る事に。
最初の2年半は奈良や大阪の店頭に立ち、美容部員の女性らしい制服から再び白衣に袖を通す日常に戻り、
化粧品のチーフやエステ併設店舗運営などをしながら、ただひたすらに店舗内を走り回る毎日。
そんなこんなで慌ただしい日々を過ごす32歳のある日、不思議なことが起こったのです。
いつも通り心斎橋の店舗で品出しをしていると、入り口から見覚えのある男性が店内を歩いています。
私は、((月に一度の)ビューティー集合教育でプライベートブランドの化粧品の話をしていた人だな~)と思い、
その男性に「お疲れ様です!」と声を掛けました。
まさか声をかけられると思っていなかったようで男性はびっくりされていましたが、
男性「お疲れ様です。お店はどうですか?化粧品は売れていますか?」
など他愛もない話を店頭で数分。
そのままお店の外までその男性を見送っていると、店長たちがザワついているのです。
店「アレ、本社の人間だよ、きっと」
私「本社?」
その方は、本社の新規事業開発部(当時は社長室)の部長さま。
私が勤めていたドラッグストアの“プライベートブランド化粧品”の開発をしており、
全国の支社(7拠点)を回りながら、化粧品や新商品の説明をされている方でした。
月に一度のビューティー担当者集合教育にて、私たちの前でお話をしていたため見覚えがあったのです。
部長が、たまたまお店を訪れ、たまたま私が声をかけたのが暖かくなり始めた4月頃。
ちょうどその頃、大阪支社の教育部から、
教育「今年の新入社員向けに(前述した)プライベートブランド化粧品の説明をしてほしいの。後藤さん引き受けてくれる?」
と依頼されていましたので、これ幸い!
大元に聞けば手っ取り早い!と早速部長にメールを送り
「新入社員向けに説明をしたいので資料やアドバイスを下さい。」と連絡をしたのです。
部長は丁寧に、そして速やかに資料やアドバイスの書かれたメールを返信してくださいました。
部長「新入社員研修、頑張ってくださいね」と。
そうして私は無事に新入社員研修を終えることが出来ました。
後輩に研修風景の写真を撮ってもらい、笑顔溢れる新入社員たちが写っている写真とともにお礼のメールをお送りしたところ、部長はとても喜んでくださいました。
そう、その数日後。
その部長は再び心斎橋の店舗の私のもとを訪ねてきました。
部長「お疲れさまでした、良かったですね、無事に終わって」
私「はい!本当に有難うございました!!」
部長「後藤さんは新横浜に転勤できますか?」
私「新横浜??」
部長「今、一緒にこの化粧品を育ててくれる人を関東で探しているのですが、どうも見当たらなくて・・・」
私「はぁ、まぁ、転勤は出来ますけど・・・。」
部長「わかりました、また連絡します。」
数日後。
大阪支社(私が勤務するエリア)の営業部長から
「新横浜行くのか!?」と心斎橋のお店に入電。
私「ええと、はぁ、まぁ・・・。」
上から指令が下りると尋常ではない速さで物事が進むことを体験。
瞬きをしている間に過ぎた3か月後。
あんなに「神奈川県に戻りたい!もう一度住みたい!」と願ってやまなかった新横浜の、
だだっ広い本社のフロアで小さくなりながら、
お偉いさま方の「ようこそ!よく来たね!!」の歓迎を受けることになるのです。
想いは強ければ強いほど現実になるんですね。
明らかに「見えない強い力」が働いたとしか思えません・・・。
そうして、大きな会社の内部に入った私は、その後それはそれは大変な苦労が待ち受けているのですが、私のこの本社勤務の4年半は後に大きな経験と力に変わりました。
8年間、店頭(現場)で積ませて頂いた山のような経験。
その後、いわゆる“オフィス勤務”をスタートさせることになるのですが、
「行きます!」と即決して良かった!!
この経験を与えられたことに、心から感謝をしています。
・パソコン業務全般
・企業対企業の付き合い、常識
・化粧品開発
・ブランディング
・集合教育等で、多人数の前で話をする
・新入社員、ビューティー担当者向け教育
・開発会議時、社長、役員の前でのプレゼンテーション
・他企業への営業
などなど。
店舗での学びに上乗せして、更なる経験を積み重ね、現在の私が形成されていきました。
私は30歳の時に「独立したい」と思い、本当に会社を辞める事まで考えました。
当時の上司に相談したところ、
上司「路頭に迷うからやめなさい、もう少しこの会社で勉強しなさい」
と止めて頂き、またその時は私も素直に従いました。
その結果、エステ店舗の運営を任せて頂いたり、ありえない偶然により本社転勤なんて急展開!
私は、今まで働かせて頂いたどの企業も、(泣きながら)全力でぶつかっていきましたので、
苦労は山ほどしましたが、何もかも全てが私の糧となりました。
・会社員だったころ、どれほど会社が私を守ってくれていたか。
・毎月決まった日にお給料を振り込んでくれる有難さ。
給料安い!忙しい!なんて文句も言っておりましたが、“経験値”という財産をしっかりと掴みました。
もしも30歳で会社を辞めていたらこれらの経験は決して出来ませんでした。
<見えない強い力>
少し話は逸れますが。
先ほど、奈良に帰った私は神奈川にまた戻りたくて仕方がなかったとお伝えしました。
そして転勤という形でその想いは現実になりました。
「想いは強ければ強いほど現実になるんですね。
明らかに「見えない強い力」が働いたとしか思えません・・・。」
見えない力に関連した話の一つですが、独立して1年後、不思議な出来事がありました。
「私はビジネスを抱えて海外に飛び立ちたい!!」
と、いずれ世界へ飛び立ち挑戦すると考えておりました。
飛行機の座席でパソコンを操作したり、優雅に本を読みながら海外へ赴き、現地の取引先と商談している姿を頭にくっきりと映像として思い浮かべる日々。
そんなある日、私はお取引先様から仕事の依頼を受け、
ビジネスクラスに乗ってベトナムへ出張に行っていたのです。
(ビジネス(仕事)を抱えて海外へ!と言っているのに、なんで私はビジネスクラスに座っているのかしら?これはきっとシャレだわ・・・。)
この冗談のような出来事は神様からのプレゼントだと思っておりますが、一つ言えることは、
「強い願い、達成したいことを映像として頭に浮かべる」事を日々繰り返すことで、
必ず実現するという事です。
<点が線となり円となる>
特に仕事においてですが、与えられた業務は得意なことも不得意なことも全力で取り組んできました。
自分がその仕事を出来るか出来ないかは”やってみて”から考えます。
また、自分でも「何故私は今これを頑張っているんだろう?」と明確な答えがないことに取り組む時もあります。
私が黙々としていることを第三者が見て「後藤さんは何故そんなことをしているの?」と不思議そうに質問され、
「意味は分からないけど、今やるべきだと思ったから」という曖昧な返答をすることが多いように感じます。
誰にも理解されない、理解して頂こうと思っていないのに黙々と続けるのは何故だろう?
しかし、理由は必ず後から現れるのです。
バラバラの点が線として繋がり円を描いてゆく様は中々興味深いと感じます。
独立直後、今まで学んできた「健康、美容、化粧品」などを一人一人の女性に合わせて提案したいという想いから“おうちエステ”をスタートしました。
その後、企業様のPB化粧品開発のコンサルティング。
美容、健康に関するYouTube作成、セミナー、自社ブランド化粧品の立ち上げ、エステサロン化粧品のインストラクター、調剤薬局のコンサルタントなどを行っております。
<自社ブランド化粧品開発>
2017年~2019年までは、海外の化粧品情報を得るために、香港、ベトナム、フィリピンの化粧品展示会などを見て回りました。
アジアの方々は、日本に関心が高く、日本人女性の白い肌にあこがれをお持ちです。
私は20歳頃から「美白肌!」を目指し、
ありとあらゆることを自らの体で人体実験をした結果として、現在の肌色と肌質を作り上げました。
自ら実践したからこそ、「美白肌」になりたいアジア人女性の皆様に向けて、
「自社ブランドの化粧品を作り、国内外に化粧品という“モノ”と美容・健康の“情報”の二つを併せて提案したい!」
と2020年末、自社ブランドRAMASUTEAを開発。
現在約2年もの間、海外出張、営業が叶わず厳しい現実もありますが、
“何か”のせいにするのではなく、今すべきことは何なのか、歩みを止めずチャレンジをしていきたいと思っています。
<我が国、日本への思い>
私は、日本人として、日本に生まれ育ち、生きていることに誇りを持っています。
日本の歴史を学ぶほどに、その気持ちは深まりました。
私が海外へ進出したい、海外の皆様と繋がりたい理由は、誇りある「日の丸」を背負って、日本の素晴らしいモノづくり、情報、ワクワクするような楽しさを伝えたいからです。
海外へ行くと現地の方々は、私が日本人だとわかった途端に笑顔があふれ、優しく親切にしてくださいます。
しかし、それは何も私が好かれているからではありません。
私が「日本人」だからです。
今まで、我々の先輩方が”世界で一番安心・安全・信頼・強くて美しい日本”という国作りをしてきたからです。
私はその先輩方に恥じぬように、この素晴らしい日本に感謝をしながら海外進出をしたいと思っています。
<食生活の変化>
2018年頃からの食生活は、カロリー制限から糖質制限に切り替え、主食は一切食べておりません。
肌の変化としては、グルテンの摂取をやめたことで、さらにワントーン白くなりました。
また、2020年7月から一日一食の生活を開始。
月に数回の外食以外全て自炊をしています。
■サプリメント
iHerbは2019年から活用しています。
ドラッグ業界で育った私としては、医薬品や健康食品の服用に全く抵抗はなく、今まで多くの種類と量を飲んできました。
日本製から海外製のiHerbのサプリメントに切り替え、服用するサプリメントの数も増やしました。
日本製と違い成分含有量がとても多く、また成分の質も高いため、服用を開始すると解りやすいほどに体の細胞一つ一つに栄養素が入っているという事を実感しております。
もちろん、血液検査データも改善しております。
そして40代を迎えた今、体の機能も、肌の状態も絶好調です。
特に脳の状態、記憶力やひらめきなどは今までの人生の中で現在一番良好です。
朝、目覚めた瞬間脳に電撃が走るように、
やるべきこと、やる順番、次の一手、アイデアなどが波のように押し寄せてきて、眠いのに・・・二度寝したいのに・・・脳が許してくれません。
そんな健康な体に日々感謝しています。
私は55歳までに「ビジネスを成功させたい!」と思っています。
売上を高め、利益を出し、雇用創出、納税をすること。
地域、国に貢献します。
その為には
■自社ブランド化粧品の国内外での販売強化、新商品開発を進める。
■美容、健康の情報を一人でも多くの方に伝える。
肌が衰えてから、病気になってから何とかしようと思っても遅いのです。
一人でも多くの方に、「予防」意識を持っていただきながら
100歳まで使える身体を作り、いつまでもQOLの高い生活を送って頂きます。
「綺麗になりたい」
「健康になりたい」
「その方法を知りたい」
肌に良い化粧品を使うだけでは、サプリメントを飲むだけではその願いは思うように叶いません。
各々の仕組みを知り、正しい方法を日々の生活に取り入れ、実行する必要があります。
こればかりは理解をしてお一人お一人に頑張って頂かなければなりません。
私は、あらゆることを自分の体で試してまいりました。
仮説を立てる→実行してみる→結果→結果検証。
これは、仕事においてだけではなく、自分の肌と身体作りにおいても全て
トライアル・アンド・エラーを繰り返します。
常に最新の情報を取り入れ、学び、実行する。
私は18年間、様々な化粧品を使用し、様々なサプリメントを服用し、食生活を変えていく事を積み重ねてきました。
そうすると、段階を踏んで、肌も、体も、精神も、思考も全てが変わりました。
結果が出るのですから、もう、楽しくて仕方がありません。
「変化」を経験した私は、たくさんの方に、
この「楽しさ」を知って欲しいのです。
お肌がみるみるうちに綺麗になること、多少の無理をしても乗り切れる頑丈な体、一喜一憂しない落ち着いた精神、アイデアやひらめきが溢れる脳の働き。
健やかな身体って、とっても「ラク」でもあるんです。
それは、不調だった身体を覚えている私だからこそ伝えられます。
国境を越えて「ワクワク」を多くの方々と共有するために、楽しみながらビジネスを進めてまいります。
そして、その次にしたいことは、日本の若者たちに貢献して生きていくこと。
そう、「後藤塾」を作りたい。
今風に言うと“オンラインサロン”というのでしょうか。
しかし、そんなオシャレなものではなく、「困ったときの塾長せんせい」という身近さ。
お腹がすいて泣いている子供に、顔のパンをちぎってお腹を満たしてあげるイメージ (^o^)
18歳~29歳の、これから社会に出て、そして社会に出たけれども何をすべきか解らない若者たちに、最初の授業は2000年以上続く世界最長の国家である日本の歴史を伝えたいと思っています。
この“塾”では、所属企業では学びきれない、日本の歴史、政治、経済、お金、国防、海外情勢、その他様々な専門家を先輩として招き、
この世界はもっと広くて、もっと興味深くて、とっても面白いということを伝えていきたい。
そして若い方に伝えたいことは、日々なんとなく働き日常を過ごすのではなく、各々自分が勤める企業で任されている仕事はその道の”プロ”レベルになるように努力をすること。
いずれ「経営者になるんだ!」と独立を考えながら働くことも楽しいですよね。
自分に限界を作らず、毎日を大切に、プロ意識をもってすべての仕事に望んで欲しい。
「学ぶ楽しさ」
「働く楽しさ」
日本には学んで良い自由があり、努力をすればどんな仕事も選べます。
こんなに幸せなことはありません。
そうして、各々が「何を為すべきか」を考え
毎日を大切に丁寧に生きること。
時間だけが全ての人に平等に与えられています。
一秒を大事にして下さい。
これからの日本、世界を支える若者たちに貢献できる日のことを想像している時がとても幸せです。
丁寧に生きようと思うようになったのは、精神が落ち着いてきた20代後半頃の事でしょうか。
丁寧に生きるとは。
・自分を大切にすること
・人を大切にすること
・祖国を愛すること
・真剣に生きること
・学び、チャレンジし続けること
・肌、体、心を整えること
・身体を作る美味しい料理を食べること
・頭から足、指先のもっと先にまで神経を行き届かせること
・人、仕事、生活すべての環境を整えること
・満面の笑顔であること
・様々なものに興味を持つこと
・いつでも神様は見ていると言い聞かせ裏表のない生活をすること
・時間を大切にすること
当たり前の毎日に感謝をすること。
そのように私は思います。
<奇跡>
2021年を迎えたころ、一通の手紙が届きました。
私は「本当の母」を知らない。
どんな人だったのか教えてもらっていない。
きっと一生知らずに過ごす。
その筈でした。
突然の手紙は母の姪からのご連絡。
私を産んでくれたけれど、私が1歳を迎える前に両親は離婚していたため、
名前以外の情報が無い母の存在。
お手紙を頂いた後、母の姪と初めての電話。
母はもう、亡くなってしまっていたとの事。
しかし、片時も私のことを忘れたことはなかったって。
私は、本当は母からとても愛されていたことを生まれて始めて「今」知ったのです。
そして、写真を送って頂き、41年振りに母と再会。
一番美しかったであろう結婚式の写真は今、私の家の小さくて可愛い神棚に置いています。
私は血縁関係において大変辛く、何よりも寂しい思いをしました。
母とはもうお話をすることは出来ないけれど、お顔は毎日見ることが出来るようになりました。
そして、私には初めて「いとこ」ができたのです。
先日、初めて母の生まれ故郷に行かせて頂き、お墓参りが叶いました。
長い年月を経ましたが、ようやく再会出来たのです。
人生、何が起こるか本当にわかりません。
こんな奇跡が待っているなんて。
私を育ててくれた父、そして私を健康に産んでくれた母がいたからこそ、「今の私」が存在します。
人にはそれぞれ、その人が超えられるか超えられないかギリギリの試練が用意されていると思います。
そしてその試練が訪れる時期も様々です。
私は本当に運が良かったと思います。
幼少期だったため、何もわからないまま時間が過ぎ去ってくれたのですから。
同じ思いを大人になって味わってしまったら私はきっと立ち上がれなかったでしょう。
そして、私にとっては幼少期の事を超えるほどの辛いことはその後ありません。
「あの頃のことに比べればこの程度の事!」
そう思えるように、そして一つ一つ壁を乗り越えられるようになったのも幼少期の深い悲しみのおかげでもあります。
私と出逢ってくれた人に、出来事に、ありがとう。
<ダイエット成功>
一念発起で「食べる量を極端に減らすダイエット」に成功し、2ヶ月で約10kg、
その後ゆっくりとさらに10kg減量。
一番体が重かった時期から約20kgのダイエットに成功。
アパレルショップであれもこれも試着。
安くて可愛い服が「入る」初めての感覚。
嬉しいなんてもんじゃありません(*^▽^*)!!
そんな20歳の頃、漫画とアニメとゲームが好きすぎて、声優の学校へ一年通うことに ( ̄▽ ̄;)
みんな若いですから、恋愛もしますよね。
痩せた私は、オシャレを楽しみ、メイクも頑張って、片思いの男子に私から好意を持たれている事が「恥ずかしい」と思われないように、相当の努力を重ね女子力を磨きました。
<発声の学び>
ちょっと余談ですが。
結局声優にはなれませんでしたが、発声や舞台稽古などの基礎訓練を一通り学んだことで、セミナー講師など皆様の前に立たせて頂いた際、声がよく通るようになり大変役に立ちました。
また、「伝え手」「聞き手」両方の立場を知ることにより、「伝え方」の工夫についても考えられるようになりました。
心に強い思いや素晴らしい考えがあっても伝わらなければなりません。
私の漫画、アニメ、ゲーム期は20歳で全て卒業することになるのですが、人生「やってみた」事はどんなことでも自分の糧になるものです。
私のちょっとした自慢は前述した「ネイティブな関西弁」を話せることですが、逆にたま~にナレーションのお仕事を時に頂いたときに「訛ってる」・・・と言われることが(;''∀'')
<洗顔の大切さ>
21歳ごろ、何を思ったか突然デパートへ口紅を買いに行きました。
3,000円くらいの高級口紅を美容部員のお姉さんが丁寧に紙袋に入れて下さっている時、唐突に
私「どうやったら肌が綺麗になりますか?」
と尋ねました。
美容部員「そうですね、お客様はまだお若いから、高額なスキンケアはまだ使わなくていいから、良い洗顔で顔を洗うようにしてください」
と教わりました。
口紅が入った紙袋を手にしたその足で渋谷のドラッグストアに行き、1,800円の固形洗顔せっけんを購入。
アルバイトの時給800円台。
友人と二人暮らしの私のお財布には高額な洗顔せっけんです。
後の、ドラッグストアに就職する前までは正しい知識がなかったため、
クレンジング、化粧水は数百円の商品、乳液は切れたら切れっぱなし・・・
という残念なスキンケア習慣でしたが、
「良い洗顔を使って顔を洗う」事を途切れさせず継続しました。
また、同じ時期から、特に理由はありませんでしたが
「ファンデーション」も3,000円程という、
私にとってはこちらも高額ではありましたが、良いものを使用していました。
「良い洗顔を使用すること」と「紫外線から肌を守る質の良いファンデーション」。
この頃は理解せず使っていたこの2つのポイントがのちの私の肌に繋がるきっかけとなります。
<体調と食>
20代前半の頃、ダイエットといえばカロリー制限。
正しい食事法など知る由もありません。
料理は好きではないため、いつも適当に済ませていました。
この頃は20kgのダイエットに成功していたため、リバウンドをさせないことだけを気にしていました。
この頃の体調は、
一年中風邪を引いている、だるい、すぐに疲れる、頭痛、生理痛、寝起きが悪い、ぼ~っとする、イライラする、無性に泣く、感情の起伏が激しい、激しい便秘、集中力がない
など不調だらけ。
特に一時期は、頭がぼ~っとし、白いもやがかかっており、起きているのか寝ているのかわからないという、今では考えられない体調だったことを覚えています。
常に冴えない体調。
病院へ行くほどではなく、鎮痛剤や総合感冒薬でしのぐ日々。
しかし、当時は「それが普通」だと思っていました。
それもそのはず、当時の私は、不調が一つもないスッキリした体や脳を「知らない」のですから。
また、20代前半の頃、パン屋さんでアルバイトを1年間しておりました。
パン屋さんで働いているので1日3食、パンを食べる食生活が続きました。
今思えば頭にもやがかかり「起きているのか寝ているのかわからない時期」とパン屋さんでのアルバイト時期は同じ頃だったように思います。
パン屋さんのアルバイトのあとにドラッグストア業界に就職するのですが、
「もう、一生分のパンを食べた (^^;」
とその後、パンを口にする機会は自然と減りました。